水野たかし・入院騒動記

12月18日(木)1820、仕事が終わり、何気なく携帯を見ると、着信アリ、やなぎさんからの留守電が入っていた。ライブのことかなと思いながら留守電を聞くと、「今、河北病院にいます。連絡ください」あっ、と思った。慌てて電話すると、今水野さんは診察中でまだ出てこないとのこと。タクシーを探して乗った。その時点では、連れて帰るのに私が自転車ではと思ったから。


前日水曜日は定休日だった。仕事から帰ると、水野は「ギター弾いてると、なんだか左手が変でうまく弾けない」と言っていた。夕ご飯のお鍋を食べながら見ていると、やっぱり左手が変だった。妙に肘が上がってしまい、お茶碗を持ちながらこねくり回している。何だろうね、脳かな、病院行った方がいいよと、会話はしていた。翌朝、病院行けば?うーん、いいよと言いながら出かけて行った。


その日の午後、ちょうど稲生座でライブがあるやなぎさんがお店に寄ってくれた。水野はやなぎさんにも左手が変だと言った。「しばらく見ていたけど、やっぱり変だから病院に行こう」と説得してくれ、車で連れて行ってくれたやなぎさんの判断が、結果的には大正解だった。


私が病院についた時、「まだ出てこないんだよ」というやなぎさんの言葉に、何かあるなと覚悟した。ほどなく看護師さんに呼ばれ、やなぎさんに一緒に来てもらって中へ入った。先生は「残念ながら脳出血が見られます。それに血圧が高すぎる。」と言い、出血は少量なので大丈夫、でも血圧を何とかしないと危険ということで、そのまま集中治療室への入院となった。さて本人は、半日会っていないだけなのに、すっかり顔が病人になっている。血圧260もあったと聞いて、自分でもショックだったのだろう。幸い、話もできるし、頭もちゃんとしているのでほっとする。こんな時に、わあ、どうしようと思わないのが私、と自分に言い聞かせ、入院の説明や事務的な手続きを聞き、私の仕事場である児童館の館長に連絡を取り、お休みをもらった。


普段通りに受け答えしながら、実は考えていたのは土曜日のカンタティモールの上映会のことだった。今回はマンスリー上映の最終回、予約もたくさん入っていた。何とかちゃんとやらなくちゃと私は思い、夫も同じことを考えていて、その夜は土曜日のこと、プロジェクターのつなぎ方とかをICUで話し合った。とにかく必死、病気のことどころじゃなかった、変わった夫婦だと思われただろうな。今から思うと、落ち着いているつもりが全然そうじゃなかった。


翌日、私はICUにずっといた。血圧をさげるために、普通は薄めて使う薬をダイレクトで点滴で入れているので、本人はちょっと酩酊したような感じと言っている。いろんな管がついていてすべてデータが表示される、看護士さんはキャスター付きの台にノートパソコンを乗せてやってくる、何か確認するのも、処置した後も、すべてマウスを動かして記録、ハイテクだなあと感心してしまう。ベッドからまったく動けないので、看護士さんは至れり尽くせり、なんでもやってくれる、私は時々お水を買いに行ったりするだけ。お水を飲む量を計ってくださいと計量カップを持ってきたのが、妙にアナログで面白い。ICUなので、電子機器は使えない、携帯の電源も切らなくちゃならないので、どこかに連絡したいときは、私が部屋を出て電話したり。


ICUには足かけ5日いた。血圧が安定してきて、徐々に電動ベッドを動かして体を起こしたりできるようになり、トイレに看護士さんと一緒に歩いていけるようになった。薬の濃度も少し下がった。時々うとうとするけれど、結構起きている時間があり、私たちはずっとおしゃべりしていた。

土曜日のカンタティモールの上映会は、江口夫妻に助けていただき、無事に開催することができた。本当にお二人には感謝している。いつも通りにできるはずの私は、今まで手に持っていたDVDを、別のCDのケースに入れてしまって探し回ったり、自分の友達に初対面の人のように挨拶したりと、いろいろ変なことをしたけれど。そんなことも、次の日夫に逐一話して2人で笑っていた。河北病院のICU はとても優しくて、私たちのおしゃべりを咎められることはなかった。


22日月曜日、私は児童館に出勤し3時に早退させてもらうことになっていた日、病院から連絡があり、一般病棟に引っ越したとのこと。5日目にしてやっとICU脱出する。5階の端っこの4人部屋だったが、完全にカーテンで仕切られていて、落ち着くことができる。一般病棟に移って電子機器OKになった。私が預かっていたiPadや携帯を渡すと、早速嬉しそうにフェイスブックを見ていた。


まだ点滴が取れず。また、点滴で強い薬を入れたため、血管が炎症を起こし、腕が真っ赤に晴れていて痛いのかわいそう。こちらの看護士さんたちは、たくさんの患者さんをみなければならず、常に忙しい。トイレに行きたい時はナースコールするしかないけど、できるだけ煩わさないようにと、お水やお茶は私が面倒見ることにする。結局のところ、入院中の私の役割は、水汲み女と洗濯女かしら。


1日2回のリハビリも始まった。右の視床下部の出血の影響で出ている、左手の不随意運動のリハビリを何回か見学させてもらったが、とても面白い。リハビリの担当は若い男性で、シートに書かれているいろんな大きさの円を夫の左手に手を添えてなぞっていく。それをどう感じるか聞き、実際との違い、夫がなぜそう感じるのか、出血の影響がどこにどう出るかなどを話し合っていく。夫はかなり理屈っぽいが、それに丁寧に答えている。興味深いやり取りだった。もともと思い通りに自分の体を動かすことができない不器用な私としては、脳出血してなくてもできないだろうなと思いながら見ていた。


点滴の速度がだんだん遅くなってきた。始め50だったのが、40になり、35になり、昨日は20だった。そして6日目の今日、行ってみると5になっていて、夕方遂に点滴が取れた。腕の腫れもだいぶ良くなってきた。それと同時に、「付き添い歩行」のプレートが「院内フリー」に変わった。トイレで看護士さんを呼ぶのが申し訳ないと言っていたので、気が楽になったようだ。今では、ベッドに腰かけ、机に向かってパッドをいじっていると、家にいるのとあまり変わらない感じになってきた。左手が時々ぴくぴく動くが、それも減ってきたようだ。自主的リハビリと称して、パッドの入力を左手で一生懸命やっている。


夫の入院は、普段は意識しないでいたことを見せてくれた。病院には様々な人間模様がある。患者の側にも、スタッフの側にもいろんな人がいて、それぞれの立場で懸命に生きている。それを目にして、改めて自分を考えることができた。人のやさしさも身に染みた。職場の同僚は、シフトを組み換え、私が少しでも早く病院へ行けるようにしてくれた。心配して訪ねてくれた彼の音楽仲間たちにも励まされた。みんなに感謝、ありがとう。そして、やなぎさん、彼が説得してくれなかったらもっともっと大変なことになっていただろう。稲生座のエミちゃんに「やなぎは命の恩人だね」と言われたけれど、その通り。本当にありがとうございました。


入院して10日を超えたが、そろそろ先が見えてきたように思う。

この間、仕事のある日は夕方から、休みの時はお昼から、毎日病院に行き、一緒に過ごしてきた。でも、いつもあっという間に帰る時間になってしまう。二人で話をしていると時間は瞬く間、私は水野と一緒にいるのが本当に好きなんだなと改めてしみじみ感じた。ICUにいたときは、パソコンも電話も何もない時間、考えようによっては貴重な時間。一般病室に移ってからも、テレビはあったけど一回も見なかった。(パッドの情報は見たけどね)ただひたすら話していた。生きるか死ぬかの状況ではなかったから、こんなことが言ってられるのだと重々承知の上で、私たちにとっては神様がくれたプレゼントだったのかもしれない。同時に、もう無理はきかないとの戒めでもあるだろう。彼も私も、もう若くない。のんびりゆっくり、私達らしく生きていく術を考えようと思う。


というわけで、2015年は、ゆっくりペースを戻していこうと思う。

お正月は家でのんびり過ごせるといいなあ、年内に退院できることを切に、切に願っている佳です。


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コメント: 1
  • #1

    館野公一 (火曜日, 30 12月 2014 19:59)

    FBの方ではよくわからなかったのですが、こちらを読んでびっくり。実は昨年からぼくのともだちでストロークになったのは水野さんが3人目。もう、自分もそういう齢だということなのでしょう。幸いというとなんですが、早期発見でよかったですね。やなぎさんGJだ。しかし、ギターが上手く弾けないと気づく辺りがさすがに水野さん。佳さんも大変でしたね、お疲れ様です。